日本軍の南京占領が一九三七(昭和一二)年一二月。その翌春の出来事です。
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塚は三間置きくらゐに掘られ、そこらには、帽子や皮帯や、鳥籠の焼け残りなぞが散らばつてゐる。埋め残した支那兵の骨が、棒切れがさゝつた様に立つてゐる。すべ〱した茶色で、美しく陽を透かしてゐる大腿骨がある。コールタールを塗つた様に湿つた脊柱骨がある。蠅が群がり、光つた様な空気は臭かつた。二人連れの将校が上つて来た。記念撮影をするから、シヤツターを押してくれと言はれ、脇坂部隊占領といふ柱をバツクにして一枚とつた。レンズを覗いてゐると、紫金山は這入つとるかと、一人が言つた。軍人さんの癖がつい出るらしい。ハイ、這入つとります、と言つて笑ふと、彼も気が付いて笑つた。
小林秀雄「杭州より南京」『現地報告』(『文藝春秋』時局月報8)一九三八(昭和一三)年五月 二三五ページ
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……「脇坂部隊」についてネットで下調べしたところ、南京に一番乗りした脇坂次郎大佐の歩兵第36連隊が出てきました。いずれ陸軍関係の資料で調べてみます。
いわゆる南京大虐殺については知識不足なので深入りはしませんが、戦闘後四ヶ月以上もたってなお埋め残されている人骨は、本当に兵のものだったのでしょうか。疑問が残ります。