百年以上前、福地桜痴はこう書きました。
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欧州今日の平和は真正の平和に非ず兵備の平和なるのみ
一八八四(明治一七)年一〇月二日『東京日日新聞』社説「欧州の侵略主義」
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軍事力の均衡による平和など、「真正の平和」の名に値しない、という趣旨です。
「兵備の平和」というのは-安倍首相の掲げる「積極的平和主義」と称するものも結局はそれなのですが-要するに仮想敵国より強大な軍事力を持つことによって、その仮想敵国を威圧し、表面上の平和を保とうとする思想です。
『春秋左氏伝』やギリシアの古代より多くの国々が採用してきた思想であり(むきだしの侵略主義国というのもあるにはありますが)、矢野龍渓ほどの人でさえ傾倒した思想ですが、歴史を見れば実にしばしば破綻してきたことも事実です。
A国がB国より強大な軍事力を持って威圧しようとすれば、B国も強大化を図り、それはA国はじめ周辺諸国の脅威となってさらなる軍備拡張を……といった具合に、いわゆる安全保障のジレンマが発生し、最後には誰も望まない戦争という形で破綻するわけです。福地桜痴や私が「兵備の平和」に反対し、軍事力によらない「真正の平和」を追求する理由はそこにあります。
「兵備の平和」というのは結局のところ、人間にとって最大の欲動は死への恐怖であり、軍備の脅威には軍備の脅威で対抗するしかないという、もっともらしくはあっても貧しい人間観に基づいています。
では、「真正の平和」は、いかなる人間観にもとづくのか。死への恐怖よりも強い欲動が人間にはあり、それに基づいて、軍備に軍備以外の力で対抗し、安全保障のジレンマを避けようというのがその根幹的な思想です。
「それ」って何なんだ……明快に答えられないのが「真正の平和」主義の泣き所です。福地桜痴は武士道に「それ」を見出そうとしたものの不徹底に終わり(小説『女浪人』)、村井弦斎は「母の力」に、木下尚江は内なる神の力に平和への力を見出そうとしたわけですが、同時代人を広く納得させるものではありませんでした。私自身はもう少し俗っぽく、「物語への模倣欲動」といったあたりに狙いをつけています。